自己紹介

本ブログをご覧いただき有難うございます。

私はチェロとチェロの音がとても好きなITシステムエンジニアのおじさんです。

大人になってからチェロを始めてもいい?

いいんです。

自分を励ますためのブログかもしれませんが、大人になってから楽器を始めることに不安をもつ人達の励みにわずかながらでもなれたら幸いです。

ブログを読んでみたいとのお声をいただけたのも公開のきっかけとなりました。2025.07

レッスンに関しての投稿一覧でレッスン成果や気づきをメモしていきます。走り書きメモのため読み苦しい箇所、誤字脱字をお許しください。

音楽との関わり

私の音楽とのかかわり遍歴を綴ります。こちらも自分の半生を振り返るためでもあり、煩雑な文章をお許しください。

0歳の頃に保育園で「カエルの歌」を突如歌い出し、保育園の先生に驚かれます。

私は両親にとって第一子ということもあり「この子はひょっとして天才なのでは?」と期待したのでしょう。子煩悩な両親は私を幼少期からピアノのお稽古に通わせます。

しかしピアノよりも私は土いじりや身体を動かすことが大好きだったのです。

息が続く限りただ全速力で走り続ける独り遊びや、泥団子をピカピカのカチカチに固める独り遊び、クロオオアリに指の爪を噛ませるか指先を噛まれるかギリギリをせめる独り遊びをするような、いわゆる普通(?)の子供でした。

ピアノや音楽の才覚を表すことはありませんでした。父よ母よ、ごめんなさい、そしてありがとう。

私が中学生になるまでに少なくとも5回は実家の引っ越しの記憶があります。引っ越しが少なくない家庭環境でしたが、引っ越しの先々の保育園や小学校で心から笑える友達が常に1人は居てくれました。それは私の人生の最大の幸運です。

幼少期の英才教育

私の父は、保育園年長児くらいの私に対して、クラシックやジャズはもちろん、YMO、ビートルズ、ジェームス・ブラウン、ジャクソン5、レニー・クラヴィッツ等をよく聴かせていました。記憶があります。

小学生位になると父は更にメタリカやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(映画バック・トゥ・ザ・フューチャーにレッチリのベーシストのフリーがちょい役で出ていたのも当時の記憶にあり)といった洋楽もじゃんじゃん聴かせるという英才?教育をしてくれていました。いったい父は何がしたかったんだろう。息子に何を感じさせたかったんだろうか。

また母方の従兄弟のお兄ちゃん達からは、小田和正(当時はオフコース?)やBOØWYを教えてもらいました。

音楽のジャンルとしては多種多様な幼少期であったと思います。

その頃、小学校の同級生達はAxisやとんねるずや替え歌の嘉門タツオ等で盛り上がっていたと思います。皆の音楽の話題についていけず、マズいと思った私がお年玉で人生はじめて買うCDはとんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」です。割と過激な隠語のような歌詞に、母は何その歌詞?と怪訝な顔をしていたのを記憶しています。大人になってからなんかすみませんと気がつく。

ピアノのお稽古

小学生のころのピアノのお稽古の記憶です。

父の友人のマンションにピアノの先生が来てくれて、そこでレッスンを受けに通っていました。

その父の友人のご令嬢さまもその先生に習っていたので、同日に便乗するようなシステムだったわけです。

毎週のお稽古に、父は私を車で連れて行ってくれていました。

その車中で聴く音楽はピアニストの巨匠のCD、ではなく、レニー・クラヴィッツをガンガン流すわけです、父は。

そのすぐ後のピアノのお稽古で私はHanonやツェルニーを必死に弾いていたわけです。今思えば不思議な環境だったなと感じます。

ピアノを一緒に習っていた父の友人のご令嬢は1歳年下で、彼女も私もピアノのお稽古が終わると一緒にファミコンでよく遊びました。

ファミコンソフトはマクドナルドのドナルドが主人公のゲームだったのを強烈に覚えています。謎に難しいゲームです。ピアノのお稽古よりもお稽古後のファミコンで15分ほど遊ぶのが楽しく、細やかで鮮やかで密度の濃い時間感覚があります。

何の話をしているのでしょうか・・そう、それほど音楽の才は無かったというわけです。

井出よし江先生ごめんなさい、そして根気よく教えてくださりありがとうございました。

青春の音楽

中学生にあがり、サッカー部が忙しくなりはじめたタイミングでピアノはあっさり辞めました。

サッカー部の友達から「俺ギターやるからお前ベースな」と始めたのがエレキ・ベース。社会人になっても仕事以外の時間の大半の時間を費やすほどエレキ・ベースは好きになりました。

結果的にピアノを辞めエレキ・ベースを始める形になりました。

同級生と始めたバンドきっかけで好きになったエレキ・ベース。高校に上がると中学生バンドは解散はするものの、そこから30代半ばまで色んなバンドやセッションでベースは続けてしまいました。

幼少期から凝り性で長く続けることは得意ではあります。泥団子ピカツルの感覚で今に至ります。

ベースを始めた中学生当時はブルースやBOØWYやシャムシェイド、X Japan等のコピーバンドをしていました。

高校になるといわゆる軽音部に入ったり入らなかったり。ハイスタンダード、グリーン・デイ、ビートルズ、ボン・ジョヴィ、Mr.BIG、レーサーX、アイアン・メイデン、AC/DC、XJapan、ヴァン・ヘイレン等のコピーバンドが流行ります。バンドをいくつも掛け持ちしました。時代というか「速弾き」が自分の中ではとても流行りました。

速弾きの派生なのか、何かのきっかけで、鬼才天才ジャコ・パストリアスを知り、「なにこれ弾けない!解らない!」と興味を持ち、その流れでジャズも好きになっていきます。何でジャズって世界でこんなに聴かれていてジャンルとして確立しているの?が当時の私には疑問で深入りしていきました。

もちろん日本のポッブスも人並みに好きでした。宇多田ヒカルやミスチルや椎名林檎やHIDEスプレッドビーバー等もよく聴く、そんな青春です。

社会人になってからの音楽との距離感

20代はバンド活動とアルバイトに明け暮れます。

しかしバンド活動ではないところで、巨匠ビル・エヴァンスのピアノトリオのベーシストであったスコット・ラファロのウッドベースの滑らかなフレーズと音色に衝撃を受けコントラバスにも手を付けました。

私の好きなジャズギタリストはハル高内(春彦)さんです。

好きなベーシストはジャコ・パストリアスです。ハルさんはジャコと仲が良かったんだそう。素敵過ぎる。

ジャコとウェザー・リポートは耳にタコが出来るくらい聞いています。耳にジャコです。

当時のバンドのメンバーのボーカリストの影響でR&B、ソウルやヒップホップも興味を持ちはじめ、たくさん聴くようになります。エリカ・バドゥ、ザ・ルーツ、ヌジャベス、デ・ラ・ソウル、スチャダラ等など・・。なるほどヒップホップにジャズを取り入れるのかぁカッコいい、オシャレだなぁと、一般的な感想をもつよう若者だったと思います。

なぜか2000年代前半の渋谷系は通ってこなかったと今になって気づきます(最近になってオザケンを車中でよく聴く)。

音楽とはつかず離れず、でもずっとすぐそばにはあるような半生でした。

チェロとの出会い

チェロとの出会いはというと、実は子供の頃から父がヨーヨー・マやミッシャ・マイスキーやパブロ・カザルスのチェロのCDを頻繁に流しており、私も好きで聴いていましたしCDジャケットの絵柄をよく覚えています。ビートルズやジェームス・ブラウンの隙間にヨーヨー・マです。

音楽ジャンル違えど、どんなアーティストも音楽に対する真摯さでいったら同じです。ですので父の言わんとしたことも、当時の父と同じ歳になり何だか分からなくもないです。

バンド活動していたエレキ・ベースはもちろん好きだったのですが、楽器としてのチェロがただただ好きでした。形がカッコいいからなのか。音が素敵だからなのか。

アルバイトで貯めたお金でチェロを手に入れては眺めたり、ピチカートでつま弾いたりしていました。初めて買ったチェロはグリガ・バジルのアンティークフィニッシュの割とレアなものでした。弾けないのにもったいないくらい。しかし本職(もちろんアマですが)はエレキ・ベース。バンド活動やセッションを活発にしていたためチェロを弾く時間も機会もなく、更に「フレット」の無い弦楽器のチェロをパッと弾けるはずもありません。4度音階のベース、コントラバスと異なりチェロは5度音階なので運指やチューニングも全くもって別物で弾くのは大変です。

そう言えば、自主出版したバンドのCDのジャケ写でベースではなく見た目がかっこいいからという理由でチェロを抱えて撮影したこともありました。そうだそうだ。

様々な音楽ジャンルをかすめながら通ったのですが、この人生でヨーヨー・マのバッハ無伴奏チェロ組曲は聴き続けてきていました。耳にバッハタコができてると思います。

ジャコ・パストリアスとヨーヨー・マで私の音楽脳が8割満たされています。

チェロ教室に通う

さて生を授かり長い年月が経ち、大の大人になってしまっていた。

何でチェロが手元にあったのにチェロを弾いてこなかったのだっけ?

このままチェロを弾けずに老いていくのか。

父も母も介護が必要になるかもしれない。これから新しいチャレンジに踏み出すパワーや機会がなくなってくるかもしれない。

その焦燥にかられ、一念発起チェロ教室に通おうと思います!

というわけで、このブログをゆるゆると公開していこうと思う次第です。

ご精読いただき有難うございます。

良き一日を!